Quantcast
Channel: 中村與資平記念館別館
Viewing all 69 articles
Browse latest View live

長春・大島洋行

$
0
0
イメージ 1
 
長春・大島洋行
 
現・虹光数码相机摄像机维修中心
長春市寛城区人民大街31-1
竣工年 不詳
設計者 不詳
施工者 不詳
 
撮影年 2009年
  2007年頃から人民大街の両側の歴史的な建物が修復され、広告の看板も撤去されたり、統一的なものに付け替えられたりして、かなりすっきりした。
  大島洋行については不詳。
 
  同時期に修復されたものは次の10棟。
「春誼賓館(大和ホテル)」
「寛城区郵電分局(長春郵便局)」
「和平大戯院(満鉄長春図書館)」
「東煤招待所(国都ホテル)」
「東煤賓館(京会社)」
瀋陽鉄路局長春弁事処(新京満鉄総合事務所)」
長春市寛城区典当行」
「誠実中介(大島洋行)」
吉林省法律援助中心(満州国務院総務庁弘報処)」
加油站(ガソリンスタンド)」。
 
イメージ 2
『長春近代建築』より

長春(新京)・富士屋旅館

$
0
0
イメージ 2
長春(新京)・富士屋旅館
 
現・各種店舗
長春市寛城区人民大街(中央通り)
竣工年 不詳
設計者 不詳
施行者 不詳
撮影 2009年
 
2007年頃修復されたと思われる。
 
イメージ 1
中国のブログ『長春記憶』に掲載された写真(1931年以前の撮影)

新京(長春)・国都ホテル

$
0
0
 
イメージ 1
新京(長春)・国都ホテル
 
現・吉林省煤炭賓館ほか
長春市寛城区人民大街
竣工年 不詳
設計者 不詳
施工者 不詳
 
撮影年 2009年
 
イメージ 2
出典:愛知大学国際中国学研究センター「中国戦前絵葉書データベース」より 左の建物は「榊谷ビル」
 
 

大連・ロシア海洋輪務局

$
0
0
イメージ 1
 
イメージ 2
 
大連・ロシア海洋輪務局
 (俄罗斯海洋轮务局)
現:不詳
大連市北大山路(上海路)
竣工年 不詳(ロシア統治期)
設計 不詳
施工 不詳
 
撮影  2009年10月
絵葉書:出所不明
 
 
 
 

中国・ 『台湾省地図冊』

$
0
0
イメージ 2
中華人民共和国1981年発行の『台湾省地図冊』
 
加筆した赤線は与那国・尖閣―台湾のほぼ中間線である。
与那国島のすぐ西側(約10km)に引かれたた国境線は
1971年以降に中国が一方的に移動した中間線だが、
なぜか日本側の起点は西表島に移され、
人口約1600人の
与那国島の存在は完全に無視されている。
 
台湾と与那国島の距離は約110km。
中間線は本来なら双方の海岸から
約55kmのところに引かれているべきである。
尖閣に気を取られているすきに
与那国の西の海(排他的経済水域)
すでに幅数十キロメートルにわたって侵略されていることになる。
 
 
イメージ 1
 
20120827_¼̿¿_Ãæ¹ñ_Àí³Õ_5
↑これが正しい国境線の位置
 
中国・地図出版社が1958年(上)と1960年(下)に出版した地図
与那国島と台湾のほぼ中間に国境線が引かれている。
尖閣と台湾の間には、国境線は引かれていないが
島の名前が尖閣群島、魚釣島と日本式に書かれているので、
当時は中国も日本の領土と認めていたことがわかる。
 
イメージ 4
 欲張りすぎ
 
1987年に中国が発行した『中国歴史地図集第8冊』
与那国島のすぐ先に国境線が引かれ、
尖閣諸島は福建省に属していることになっている
引用元:
 
 
台湾省地図冊
 
出版社 地図出版社(北京)
出版年 1981年
 
 この地図は文化大革命が終息して間もない1979年1月1日に発表された『台湾同胞に告げる書』をうけて発行されたもので、中国の領土、領海、国境線に対する考え方を反映している
 1958年の地図は外務省情報文化局が1972年5月に発行した小冊子『尖閣諸島について』から引用した中国の地図である。このころは外務省もそれなりに機能していたようだ。情報文化局は、現在の外務報道官及び広報文化交流部に相当する組織。外務省にこんな良い資料があるのなら、再発行とネット上での公開を望みたい。中国もパンフレットを発行し、世界中にばらまいている。
  1972年の国交樹立以来、尖閣問題は事実上「棚上げ」されたため「お蔵入り」させたらしいが、今となっては遠慮は無用。できれば一家に一冊配布し、中国および台湾からの入国者にも中国語版を配布してもらいたいものだ。
 
↓このHPにその内容が紹介されている。(魚拓?)
 
こちらブログにはPDF版が掲載されています。
 
こちらのブログにもたくさんの地図が紹介されています。
 
地図出版社は中国の国営出版社。
 
参考資料:
 「中国广东省民间某企业管理人员于24日在微博上称,“1949年开始到1971年China政府都承认钓鱼岛是日本领土”。其拿出1953年的党报《人民日报》的新闻、以及若干地图作为证据。
 发微博的为广东省的广东捷盈电子科技董事会副主席林凡。林凡为新浪加V认证人士,拥有10万关注者。
 据林凡所提供的资料,人民日报在1953年1月8日的新闻称“琉球群岛(冲绳)散布在我国台湾东北和日本九州岛西南之间的海面上,
包括尖阁诸岛、先岛诸岛和冲绳群岛等7组岛屿”。从中国当局所编订的53年、58年、60年、67年版本的地图来看,大多数都是标记为“尖阁群岛”、“鱼钓岛”。对中日界线的标记也明显为日本所有
 林凡冷静地将证据收集起来在网上公布,并提出“China政府,钓鱼岛还是我们的领土吗”的质问。中国国内的反应多是,“从资料来看钓鱼岛确实为日本领土”“这让参加反日游行的人很为难”,很多人支持林凡的言论。」
ブログ『幕末散歩』より (赤字は引用者)
中国側の反論
   最近の国際シンポジウムでは、ある日本側発言者が釣魚島について、中国で1958年に出版された「世界地図集」で「尖閣諸島」が日本の版図内に記されていることは、日本のものであることを認めたに等しいと述べた。これに対して私は「この地図帳の扉ページには『中国の一部国境線は抗日戦争前の『申報』地図に基づき作成した』と明記してある。したがって、これを新中国の立場を代表するものとはできない。1956年に中華人民共和国地図に基づき作成された『世界分国図』の日本の版図には、いわゆる『尖閣諸島』はない」と指摘した。こうして、この問題でもめる人は誰もいなくなった。
(2012.9.6 人民網日本語版より)
 
 抗日戦争前の『申報』地図とは何か?
抗日戦争前ということは中華民国時代に発行した地図ということか?
中華人民共和国は中華民国の諸権利を継承したはずであるから、当然尖閣諸島に関する権利もないはず。
1956年の『世界分国図』が正しいとするなら、なぜ1958年や1960年の地図に反映させなかったのか?
 
wikiペディアによれば『申報』は1934年以降は国民党の事実上の広報新聞だった。
 
この部分についての日本外務省のHP上の説明は次のようになっている。

【参考:『世界地図集』(1958年)】

 1958年に中国の地図出版社が出版した地図集。尖閣諸島を「尖閣群島」と明記し,沖縄の一部として取り扱っている。中国側は,同地図集には,「中国との国境線の部分は,抗日戦争前(すなわち台湾が日本植民地だった時代)の地図を基にしている」との注記があり,1958年発行の地図における記載のみをもって当時の中国政府が日本の尖閣諸島への支配を認めていたという根拠にはなり得ないと主張。しかしながら,中国側が指摘する注記は,原文では「本地図集の中国部分の国境線は解放前の申報(注:当時の中国の新聞)の地図を基に作成した(中文:本図集中国部分的国界線根据解放前申報地図絵制)。」とのみ記述。具体的にどの部分が解放前のものかは不明。そもそも,同地図では,台湾を「中華人民共和国」の領土として記載しており,台湾の付属島嶼であると主張する尖閣諸島に関する記述だけを台湾が日本の植民地であった時代の表記で残すことは不自然。
中国語版PDFもあるが抄訳で地図がないのでわかりにくい。
 
 中国がいまのところ出している証拠なるものは、中国人が島に住んで利用したとか、何か施設をつくったとかいうものではなく、琉球からの朝貢使節の船に便乗して琉球へ行った役人が書き記した日誌に、目印とした島の名前がかかれているという程度のものである。
  また光緒19年(1893年)に、釣魚島付近の海で採れた薬草?から作ったという丸薬を献上した役人に西太后が褒美として「釣魚島」を授けたという記録を持ち出し「鉄の証拠」としている。もっともらしいが中国らしく偽物(捏造)という指摘があるhttp://hassin.org/01/opinion/1341。その結果、島をどのように有効に管理し、利用したのか一切不明である。
   確たる証拠もなく「大昔から中国のもの」という言い方をするのは、内に向かっては自らの大国意識を満足させるためのものであり、外に向かっては領土覇権主義以外の何ものでもない。
 要するに、石油がありそうだとわかった1970年頃以前、中国が尖閣諸島などの無人島を単なる航行の目印程度としか認識していなかったことは明白であり、それゆえ何ら利用もせず、対外的にも主張してこなかったのである。
 中国の真の狙いは台湾攻略および沖縄トラフまでの大陸棚(ほぼ東シナ海全体)の独占であり、尖閣諸島はそのための橋頭堡に過ぎない。仮に中国が尖閣諸島を手に入れれば、台湾への威圧になり、台湾奪回にきわめて有利となる。
 もう一方の当事者である台湾の中華民国側からすれば、尖閣諸島の持つ意味は、漁業権が主であり、軍事的な意味はあまりない。尖閣諸島は大陸反攻の足掛かりにはならないので、大陸からの圧力を避け、台湾の独立性を確保するには現状維持が最上の選択だろう。
 
 中国が初めて発行した尖閣諸島海域の地図
イメージ 3
中国が9月20日発行したという尖閣諸島海域の地図の一部
加筆した円内に
一方的に移動させた国境線が引かれているのが分かる
写真は『中国新聞網』、一部加筆

哈爾浜・前田時計宝石店

$
0
0
イメージ 1
 
イメージ 2
『ファミリー・ヒストリー』新人物往来社2011年刊より
哈爾浜・前田時計宝石店
哈尔滨/前田钟表珠宝店
 
現況 新華書店
所在地 道里区石頭道街10号(地段街との交差点西北角)
竣工 1937年
設計 不詳
施工 不詳
構造等 鉄筋コンクリート地上3階建て(一部4階)、地下1階
 
 前田時計宝石店は1917年のロシア革命前、ウラジオストクの日本人が経営する時計店で修業した長崎県出身の前田利夫氏が、革命後、哈爾浜で開いた店で、一代で満洲一の時計店と呼ばれるまでになったいう。タレントのルー大柴さんはその孫にあたる。
 2008年10月、著名人の家族の知られざる歴史を紹介するNHKの番組『ファミリー・ヒストリー』で紹介された。
 
 参考ウェブサイト:http://d.hatena.ne.jp/nsw2072/20081012
http://gree.jp/lou_oshiba/blog/entry/590524057 (ルー大柴さんの公式ブログ)
 
 参考文献:『中国近代建築総覧 哈爾浜編』1992年刊
『ファミリー・ヒストリー』新人物往来社2011年刊
 

哈爾浜・満洲電信電話株式会社

$
0
0
イメージ 1
 
イメージ 2
 
哈爾浜・満洲電信電話㈱
哈爾浜電報電話局
 
現・哈爾浜電報電話局/中国聯通(China Unicom)
所在地 南崗区奮闘路408号
設計  満洲電信電話㈱経営部営繕課
施工  不詳
構造等 地上3階、地下1階(4階部分が増築されている)
出典  哈爾浜電報電話局答案室所蔵設計図
注   哈爾浜市Ⅲ類保護建築
参考  中国近代建築総覧・哈爾浜編(1992年発行)84頁
写真撮影 2009年
 
 

浜松・大栄湯

$
0
0
イメージ 1
 
浜松・大栄湯
 
現況:廃業し、駐車場になっている。
浜松市中区野口町219
開業 1927年(昭和2年)
竣工 不詳
設計 不詳
施工 不詳
撮影 2006年
 
 2010年末に廃業し、建物も撤去された。
 このあたりは戦災で焼けているので、戦後の建物と思われる。
 1936年(昭和11年)に発行された『浜松市商工人名録』には当時の浜松浴場組合の会員名簿が掲載されている.
  それによれば、同年2月現在、市内には63軒の公衆浴場(銭湯)があり、大栄湯も野口町唯一の風呂屋として掲載されている
 また戦後の昭和25年の資料によれば32軒あったが、平成13年頃には、8軒まで激減している。
 現在はさらに減り、旧浜松市内には、サウナやスーパー銭湯を除けば、ふつうの銭湯はわずか2軒(大工町の巴湯と曳馬のみよし湯)が残っているだけのようだ。この10年で4分の1に減ったことになる。
 
参考Web:『トーキョーワッショイ』http://tkyw.jp/archives/2260974.html
『POM湯けむり部会報告』
これらのwebサイトでは今はなき「大栄湯」などの貴重な体験レポートを見ることができます。
 
 
 

日本キリスト教団掛川教会

$
0
0
イメージ 1
中日新聞遠州版2012.11.6
 
日本キリスト教団掛川教会
掛川市掛川502
工 1934年―2012.1120以降撤去予定
設計 不詳
施工 不詳
 
新聞報道によれば、今月20日以降に取り壊しが始まり、新しい教会は来年7月の完成予定となっている。
問合せ先:同教会☎0537(22)5746
 
 
 
 
 
イメージ 2撮影:2012.11.20

 
 

浜松市積志・小杉慶次郎翁頌徳碑

$
0
0
イメージ 1
 石碑は3基あり、真ん中の1基は木立に隠れている。
建立当時の下の写真と比べると石碑の高さがが低く感じるが、
前面の道路が電車の踏切りの高さに合わせて嵩上げされたためであり、
灯籠はなくなっているが石碑自体は動かされてはいないようだ。
 
イメージ 2
 前列中央が小杉慶次郎氏(写真=小杉家提供)
 
浜松市積志・小杉慶次郎翁頌徳碑
 
所在地 浜松市東区積志町(遠州鉄道西鹿島線積志駅前東側)
建立年 1937年(昭和12年)
高さ 3.94m、幅 1.42m、厚さ0.23m
写真 (上)2013年2月、(下)1937年5月29日
碑文の題は『小杉翁頌徳碑』
 
 遠州織物業界の先駆者で、輸出織物界の功労者である小杉慶次郎(1866年~1939年)の功績を称えて地元・業界関係者らが建立した。
 小杉慶次郎は家業の藍染業を継承して織物業(丸九小杉織物工場)に転換したほか、各地を視察して同志とともに化学染色を行う西遠染色株式会社を1907年に創立し、1915年から37年まで約22年間の長きにわたり社長をつとめ発展させた。同社は1942年に他の9社との企業統合を決定し、翌年大和染工株式会社を設立した。大和染工は2007年に創立100周年を迎え、西遠染色を前身として位置づける『大和染工百年史』を発行している。
 小杉慶次郎は家業・社業を発展させたほか、1927年、静岡県の委嘱を受けて当時の「朝鮮・満洲・支那」の繊維市場を視察して、帰国後、神戸に県の輸出織物斡旋所を新設して所長に就任した。
 1933年には当時のジャワ、マレーなど南洋各地の市場調査を行い、遠州織物の販路拡大に大いに貢献した。このときの報告や旅行記は遠州輸出織物工業組合永久社が1934年に発行した『南洋にて得たるもの』(小杉慶次郎、木村新二の共著)という本に収められている。
 また公職としては、浜名郡中郡村、積志村の村議、積志郵便局長、中郡報徳社社長などに就いている。
 この石碑は社長退任を機に、同氏への感謝と古希の祝いを兼ねて建立されたと思われ、発起人11人や賛助員111名計122名の氏名が別の小さな石碑に刻まれている。
 もう一つの石碑には
「海外へ輸出綿布の機の音
 響く郷土そ国の礎 慶為」
と刻まれている。
 
イメージ 3
丸九小杉織物工場の外観
イメージ 4
同じ場所は現在「パラシオン・マルク」というマンションに変わっている。
 
参考文献:『大和染工百年史』2007年、『フースヒー  豊橋・岡崎・浜松号』1914年、『躍進の浜松』1940年、『遠州織物銘鑑』1935年ほか

浜松市・積志小学校旧校舎(現・高林町公民館)

$
0
0
 
イメージ 1
 
浜松市・積志小学校旧校舎
(現・高林町公民館)
 
所在地 浜松市中区高林
竣工 不詳
移築 昭和34年
設計 不詳
施工 不詳
 
明治42年5月1日に 濱名郡積志尋常高等小学校として設立され
平成21年に創立100周年を迎えた現・浜松市立積志小学校(浜松市東区)の
初期の木造校舎の一部が5キロほど離れた中区高林町に昭和34年に移築され
今でも町の公民館として使われている。
内部は多少改造されているが、廊下や下駄箱、窓ガラスなどもそのまま残っており
当時の小学校の様子を彷彿とさせる。
公民館は近く別の場所に新築する計画があるとのことなので、
この元小学校の校舎の行方が気になる。
 
イメージ 2
 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
 
 

大連・藤川ビル

$
0
0
イメージ 1
 
大連・藤川ビル
 
大連市中山区長江路/吉慶街(旧・信濃町2番地)
 
竣工 1937年頃
設計 谷口素
施工 板井組
構造 鉄筋コンクリート5階建て
用途 不詳
 
出典:『満洲建築雑誌』18巻2号1938年
撮影 2009年10月

牧之原市・培本塾会館

$
0
0
イメージ 1
 
イメージ 2
       
牧之原市・培本塾会館
        ばいほんじゅく 
 
牧之原市静波108(龍眼山中腹)
竣工 1972年8月 30日
設計 スギ一級建築士事務所(静岡市)
施工 三井建設
造園 第一造園
構造 鉄筋コンクリート2階建、ルーフィング葺 延989.74㎡
総工費 1億3千万円
 
 培本塾(ばいほんじゅく)は旧制静岡県立榛原中学(現・榛原高校)の小田原勇校長が農業を中心とした勤労教育を実践するために設立した私塾で、昭和11年財団法人培本塾として農林大臣によって設立が許可された。現在は公益財団法人として学校教育および社会教育のための研修会場、図書館などを運営している。
 「培本」とは『日本書紀』の崇神天皇の詔勅にある「農天下之大本也」「培國本」からとったもので、文学博士加藤虎之亮氏が選考した幾つかの案から、枢密院議長の一木喜徳郎男爵(掛川市倉真出身)が選定したという。
 
参考文献:『創立五十周年記念ー財団法人培本塾史』昭和61年発行
       『竜眼山のあけぼの』(会館落成記念誌)昭和47年発行
 
以下、案内パンフレット「培本塾のしおり」より
 
イメージ 5
イメージ 4
 
イメージ 3

哈爾濱・満洲国赤十字社哈爾濱病院(哈爾濱市第一医院)

哈爾濱・日満クラブ

$
0
0
イメージ 1
 
哈爾濱・日満クラブ
 
南崗区一曼街23号
竣工年 不詳
設計者 不詳
施工者 不詳
撮影 2009年
 
現況 哈爾濱市図書館東楼
出典 『中国近代建築総覧 哈爾濱編』
   『哈爾濱歴史編年』P.219 1933年4月 1日より使用開始

哈爾濱・レントフスキー邸

$
0
0
イメージ 1
 
イメージ 2
 
哈爾濱・レントフスキー邸
 
現況 黒竜江省文史研究館/人民政府参事室
南崗区吉林街130号
竣工年 1902年
設計者 不詳
施工者 不詳
撮影 2009年
 
 レントフスキー(Lentovsky、中国式表記では「連鐸夫斯其」)は中東鉄道の松花江大橋建設時のチーフエンジニアを務めた人物。この建物は1931年からは満洲国の警察署長官舎として使われ、中華人民共和国建国後は黒竜江省人民政府参事室兼文史研究館として使われている。
 
参考:『建築芸術長廊―中東鉄路老建築尋踪』黒竜江人民出版社2008年
 

満洲国国務院総理大臣官邸

$
0
0
 
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
満洲国国務院総理大臣官邸
 現況 吉林省軍区徳惠路招待所
長春市西民主大街429号(新京市西萬壽大街)
竣工 1937年
設計 満洲国営繕需品局
施工 戸田組
 
満洲国の第二代総理大臣張景惠の時に建設された総理大臣官邸。
参考:『長春近代建築図鑑』2011年、吉林出版集団/吉林文史出版社
 
 
 

哈爾濱・鳳翔影劇院

$
0
0
イメージ 1
 
イメージ 2
 
哈爾濱・鳳翔影劇院
 
現況:亜細亜電影院/亜細亜通信商場(2009年当時)
南崗区果戈里大街414号
竣工 1908年
設計 不詳
施工 不詳
撮影 2009年
 
『Кино-Театргигант』(巨人映画館)
 

浜松市積志・小杉縫三郎邸

$
0
0
イメージ 1
 
浜松市積志・小杉縫三郎邸
 
浜松市東区積志町
竣工 大正時代
設計者 不詳
施工者 不詳
撤去  2012年頃
画 山城睦
『ふる里積志の風景』山城睦著 平成18年2月 発行より
 山城睦氏は県立浜松工業高校土木科教員を長く勤め、余暇に書きためた地元積志地区の細密な鉛筆画46点をまとめて刊行した。平成14年から17年までの積志地区の農村風景や寺社、学校などの様子が精密なタッチで表現されている。「小杉家の西洋館」と題されたこの絵はその中の一点。
 
 小杉縫三郎氏は明治から昭和初期にかけて織物業で財を成し、積志の地に工場、倉庫、母屋、蔵、女工宿舎などを建てた。上の鉛筆画は二俣街道側から見た母屋と女工宿舎で、裏に工場建屋と蔵が並んでいた。特に街道に面した女工宿舎は西洋館造りの印象的な佇まいを見せ、地域のシンボルとして親しまれていたが、惜しくも2012年頃、工場跡、母屋などとともにすべて撤去された。
 
イメージ 2
母屋と西洋館
イメージ 5
西洋館
イメージ 3
左から蔵、母屋、西洋館
イメージ 4
北側から見た工場と蔵、母屋
写真は2011年7月 撮影
 
 
 
 

Elena House

Viewing all 69 articles
Browse latest View live