浜北区貴布祢・旧平野又十郎邸
所在地 浜松市浜北区貴布祢
竣工時期 座敷 明治22年(1889)
蔵、長屋門、中門、塀など 明治前半期
明治時代から昭和初期まで、地方銀行家として活躍した平野又十郎(1853-1928)の旧邸宅と屋敷林(約4200㎡)。
平野又十郎は遠州地方の近代化を推進した最有力者のひとりで、26歳の時、遠州地方で盛んだった報徳思想をもとに貯蓄組合「同心遠慮講」を設立し、地域の教育や産業の基礎をつくった。同心遠慮講は、銀行業務を行う永世社を設立、これがのちに永世銀行に発展し、遠江銀行を経て、遠州銀行に併合された。
一方で平野又十郎は1880年に銀行業務を行う西遠商会を興し、1885年西遠銀行(http://blogs.yahoo.co.jp/yosihei8jp/59097005.html)になり浜松の有力銀行として発展した。その後、竹山謙三の興した資産銀行と1920年に合併して、遠州銀行になったが、戦時中の1943年に「一県一行」の掛け声の下、静岡三十五銀行等とともに静岡銀行に統合された。(因みに、この掛け声はまやかしで、抵抗した駿河銀行と清水銀行は存続し、浜松には銀行本店が無くなった)
平野又十郎は掛塚村(現磐田市掛塚)の廻船問屋川口屋の林文吉の八男として生まれ、幼名は八郎、後に幹造と改名。17歳の時、東京へ出奔、大蔵省監督権頭の岡村義昌のもとに寄食し、勉学に励み、岡村に随行して、神戸へ行き、英語を学ぶ。
1875年、英国船が遠州灘で座礁した際、通訳を行い英国から感謝される。その時送られたガラス製の水差しが保管されている。
1877年、平野家の養子となる。
平野家は又十郎の長男繁太郎(1891-1993)が後を継ぎ、銀行家として活躍し、静岡銀行の頭取を21年間務めている。
主に接客用に使われたという主屋は明治22年に建設された「近代和風住宅」で、二間続きの座敷を中心におき、南面に観賞用の庭園を配し、長屋門、中門、蔵、板塀、伊豆石造り塀などから構成されている。邸内には松や杉、モミジ、など多種の樹木があり、特に胴回り5mの銀杏の木は樹齢数百年の貴重なものである。
平成5年に旧浜北市に寄贈され、平成25年度まで「森岡の家」として一般公開されてきたが、現在廃止され、財産の有効活用のため、近く樹木も含めて完全に撤去され、隣接する文化センターの駐車場となる予定だが、生態環境破壊、歴史文化破壊であるとして住民らによる反対運動が起こっている。
玄関
庭
蔵
室内
10月 14日から行われた現地見学会の外で行われたアンケートでは
ほとんどの人が保存を求めている