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Channel: 中村與資平記念館別館
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静岡学問所(伝習所)・クラーク邸

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静岡学問所(伝習所)の
お雇い外国人教師・
E・W・クラーク邸
所在地 静岡市葵区城内町
竣工 明治5年(1872)
解体 明治11年以降?
設計 E・W・クラーク
施主 静岡県
参考:1873年クラーク撮影の写真帖『静岡風景』早稲田大学図書館所蔵

エドワード・ウォーレン・クラーク(Edward Warren Clark、1849年1月27日 - 1907年6月5日)は、アメリカ合衆国教育者牧師明治時代の日本で、教育者として活動し、その経験を帰国後に著書『Life and Adventure in Japan』(邦訳『日本滞在記』)(1878年)にまとめた[1]。ミドルネームは「ワレン」と表記される場合もある。
ニューハンプシャー州ポーツマス出身。ウィリアム・グリフィスラトガース大学で同窓生だった。駿府藩徳川の旧幕臣たちのために静岡に設立した「駿府学問所」(のち、「静岡学問所」に改称)の教員を探していた勝海舟は、知り合いのグリフィスに相談し、クラークを推薦された。その結果、1871年に勝の招きで来日する[2]
来日後は静岡学校(後の賤機舎)で旧幕臣の師弟に倫理歴史語学物理化学数学を教えた。休日には自宅でバイブルクラスを行った。クラークと学問所との契約ではキリスト教の布教が禁じられていたが、勝の計らいで不問にされた[3]。そこで、キリスト教に入信した人たちが静岡バンドを形成した。
1873年東京開成学校の化学教授になる。東京でもバイブルクラスを行い、その時出席した中村正直に感化を与えた。1875年にアメリカに帰国し、ニューヨークに住む。後にフィラデルフィア神学校に入学して、牧師になる。
1894年に再来日して勝海舟に再会し、勝との対話から『幕府始末』を著した。(以上ウィキペディアより)


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『駿府城跡写真帖』より
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静岡市の近代建築遺産「エンバーソン邸」にある
クラーク邸の模型(1/30)1987年制作
静岡市役所職員制作

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クラーク邸の模型作りを報じた新聞と間取り図(推定)中日新聞1987年1月13日

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クラーク邸のあった場所(駿府城外堀北西角、城内町)の現在の様子
この石垣の内側に建てられたため
城外からは平屋建てに見えた。
実際は二階建てで
富士山の眺望を楽しむために、
二階のベランダから城壁上に出られるようになっていた。
クラークの著書『日本滞在記』(講談社)によれば
そのために、城壁の土塁の一部を削り、
天守台の石垣の石を運んで土留めに使ったという。
その石垣は現存している。

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